寺院醸造の歴史

 

日本酒。米からできた日本を代表するお酒。 中世の日本。奈良は興福寺の『多聞院日記』や『経覚私要抄』にも記されるように、国家が建造した大寺院が寺院醸造の役割を担っていました。海外の醸造酒、ワインやビール、シャンパーニュなどもそれぞれの文化圏の中世の寺院醸造の中でその品質を飛躍的に高めてまいります。 かつて我が国でも寺院醸造が盛んに行われ、それがなぜその後衰退したか。寺院醸造の歴史を紐解きます。

 

仏教には「不飲酒戒」という戒があり、現代人の感覚では僧侶は飲酒を禁じられていたのではないかと思うかもしれません。ましてや、お寺でお酒造りをしていたということは到底考えづらいことだと思います。しかし、中世のお寺ではお酒造りを行い、さらにそれを商売としていたことが記録に残されています。

 

奈良の興福寺、東大寺、正暦寺などの大寺院は、奈良時代や平安時代に国によって建てられた国立の寺院であり、長く教育機関や政治機関のような役割を担っていました。室町・戦国時代では応仁の乱以降、国が乱れて各地に戦国大名が勃興し、それぞれが独立国家のようになっていましたので、幕府や朝廷には十分なお金が集まっていなかった時代だと考えられています。多くの貴族は荘園の経営がうまくいかず、逼塞(おちぶれてみじめな境遇にあること)していた時代です。大寺院であっても置かれた環境は変わらず、朝廷や幕府からの財源に頼ることができない状態で、従来からの寺領荘園を経営し、上納米、現物による課役、末寺などの存在を活用することで寺院経営を行っていましたが、貨幣経済の発展とともに寺院も経済的措置を講じなければならなくなりました。そこで寺院経営のための財源調達の手段の一つとして、お酒造りが行われていました。公の財源を当てにできない国立の寺院は、それまでと変わらない寺院の活動を維持するために現金収入を確保する必要性があったのです。日本初の民間の醸造技術書とも言われる『御酒之日記』には「天野酒」や「菩提泉」と言われる寺院醸造によって造られるお酒の製法について述べられています。これらの寺院で醸されたお酒を総称して「僧坊酒」と呼びます。「僧坊酒」は時の権力者、織田信長、豊臣秀吉も賞賛したと文献にあり、戦国時代、奈良酒として広く知られました。しかし、1600年、徳川家康によって江戸幕府が開かれると中世の大寺院の権力を削ぎ落とす政治を行います。石高を減石された大寺院は「僧坊酒」を造り続けることは難しくなり、その後衰退の一途を辿ることとなります。寺院醸造の衰退後も奈良酒については、伊丹の鴻池で江戸時代に書かれた、酒造技術書『童蒙酒造記』の中で、「奈良流は酒造りの根源といふべきもの」と書かれ、その技術力が一定以上の評価を得ていたことが読み取れます。